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What A Wonderful World【訳詞付】- ルイ・アームストロング

 

What A Wonderful World【訳詞付】- ルイ・アームストロング

 

突然ですがどうしてもこの曲が聴きたくなりました。

自身のCDの方が良い音なんですがしょうがないですよね。

この素晴らしき世界」(このすばらしきせかい、英語: What a Wonderful World)は、ルイ・アームストロング(Louis Armstrong)の楽曲。

作詞・作曲はG・ダグラス(音楽プロデューサーのボブ・シールのペンネーム)とジョージ・デヴィッド・ワイス。

ボブはベトナム戦争を嘆き、平和な世界を夢見て、この曲を書いたという。

アメリカ合衆国では中ヒット止まりだったが(ビルボード(Billboard)誌の年間トップ100に入れなかった)、全英チャートで1位となった。

1968年には、同名のアルバムもリリースされた。

その後、1987年のアメリカ映画『グッドモーニング, ベトナム』で、戦時中の南ベトナムの牧歌的田園風景とその中で起きるテロや空爆等戦場の現実を映す印象的なシークエンスにBGMとして起用され、全米32位というリバイバル・ヒットとなった。

日本ではホンダ・シビック(3代目)や東海東京証券、東京海上日動火災保険、ソニー、ソフトバンクモバイルなどのテレビコマーシャルに起用されたことがある。

また、映画『スウィングガールズ』のワンシーンやBS-TBS制作の『湯のまち放浪記』のエンディングテーマでも流れた。

ルイ・アームストロングLouis Armstrong, 1901年8月4日[1] – 1971年7月6日)は、アフリカ系アメリカ人のジャズミュージシャン。

サッチモ (Satchmo) という愛称で親しまれた、20世紀を代表するジャズ・ミュージシャンの一人である。

サッチモという愛称は「satchel mouth」(がま口のような口)というのをイギリス人記者が聞き違えたとする説や、「Such a mouth!」(なんて口だ!)から来たとする説などがある。

その他、ポップス (Pops)、ディッパー・マウス (Dipper Mouth) という愛称もある。

アームストロングは優れた文筆家でもあった。

『Swing That Music』(1936年):最初の自伝

『Satchmo – My Life in New Orleans』 (1954年):二冊目の自伝

『In His Own Words』(1999年、オックスフォード大学プレス):雑誌への寄稿文・妻への手紙・若者へのアドバイス記事などを編纂したもの。(Wikipediaより)

 

 

Louis Daniel Armstrong 1953年1月1日撮影

 

名前は知らなくてもだれもが聴いたことのある特徴的な声でお馴染みのルイ・アームストロング。

少年のころピストルを発砲し、少年院送りになったが、そこでブラスバンドのコルネットを演奏することになった。

有名な「サッチモ」というあだ名は「satchel mouth」(がま口のような口)というのをイギリス人記者が聴き間違えたとする説や、「Such a mouth!」(なんて口だ!)から来たとする説や、ダンスで日銭を稼いでいたころ、おひねりをほかの子どもに取られないように口に入れていたからとする説がある。

ルイ・アームストロングは「キング・オブ・ジャズ」と讃えられたジャズ史上最初の天才であり、トランペットの即興演奏を得意とし、高い音色を長時間キープするなど優れた演奏技術で知られた。

ヴォーカリストとしても有名で、「ズビズビ・ダバダバ」と言葉を即興的につなげ、声を楽器代わりに使う歌唱法“スキャット”の発明者として知られる。

愛称は“サッチモ(大口)”。由来はエラ・フィッツジェラルドが彼の大きな口を「Such a mouth ! 」と呼んだことによる。

1925年(24歳)、当時のジャズの中心地シカゴにて、念願だった自身のバンド“ホットファイブ”を結成。

サッチモが活躍し始めた1920年代は、それまでバンド全員が揃って演奏するスタイルが一般的だった。

彼は演奏スタイルを革新し、曲の途中に独自の「ソロ即興パート」を入れ変化をつけた。

たちまち人気に火が付き、翌年にはジャズ史上初のスキャット曲「ヒービー・ジービーズ」を録音。

この曲を聴いたシカゴ中のジャズ・ファンが、サッチモのしゃがれ声に憧れて風邪を引こうとしたという。

スキャットのおかげで、人々は同じ歌を様々な歌い方で楽しめるようになったのだ。

1957年、南部アーカンソー州のリトルロックで高校入学を希望した黒人学生九名が、人種差別により入学を阻止される事件が起きた。

差別主義者のフォーバス知事は、登校初日に州兵を高校に派遣し、黒人学生の登校を実力で阻止する。

アイゼンハワー大統領はリトルロックの出来事を知りながら何も行動しないため、怒ったサッチモはメディアのインタビューで「フォーバス知事は無学で、アイゼンハワー大統領は意気地なしだ」と感情を爆発させた。

彼自身、これまで公演先で白人と同じホテルへ泊まれなかったり、劇場で黒人専用の出入口を強制されるなど、何度も差別を体験していた。

サッチモの怒りは新聞で大きく取り扱われ、すぐさま世界中に伝わった。

マネージャーは大統領に対する非難発言の撤回を勧めたが、サッチモは逆に批判を強め、予定していたソビエト公演を「黒人をこのように酷く扱うアメリカを代表してソビエトに行くことは出来ない」とキャンセルした。

アイゼンハワーは世界から注目を浴び、かつてノルマンディーで戦った米軍きっての先鋭部隊・第101空挺師団をリトルロックへ派兵した。

黒人学生らは軍に護衛されながら、ついに入学を果たすことが出来た。

63歳で録音した『ハロー・ドーリー』は当時人気絶頂だったビートルズを抜き全米No.1ヒットに輝き、3ヵ月続いていたビートルズの連続1位記録をストップさせ音楽関係者を仰天させた。

1971年、ジャズ界の巨人は69年の人生を終える。生涯のレコーディングは約1,500曲。

どんなに軽いポピュラー曲でもサッチモが歌うと深みや哀愁が生まれ、人々は歌から人生を感じ取った。

墓はニューヨーク州のマンハッタン島の東側、クイーンズ地区のフラッシング墓地。

墓石の上部にはトランペットの彫刻が置かれている。「ジャズとは自分が何者であるか、でしかない」(ルイ・アームストロング)。

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