Michael Jacksonの原点 ジャクソン5からキャプテンEOまで
パーソナリティーと音楽性の原点
“キング・オブ・ポップ”マイケル・ジャクソンは58年8月。
インディアナ州の中でも最も黒人が多い地域ゲイリーで、決して裕福ではない家族の8人目の子供として生まれます。
当時のゲイリーは行政も行き渡らない程に半ば無法地帯化した街。
マイケルとその家族達は、その街でささやかな楽しみとして音楽に没頭するそんな家族でもありました。
マイケルの心を捉えた初めての音楽は、他の黒人アーチストがよく口にする教会音楽、ゴスペルズではなく、クラシック音楽だったと言う。
その旋律のシーケンスによる『音楽の美』の形は、最後までマイケル本人の作品の根本にも流れたもの。
62年、4歳の頃に兄弟達とコーラス・グループを結成。
子供達の積極的な要望もあったが、このグループが活動を始めたのはむしろ、父ジョセフの『もしかしたら金儲けが出来るかもしれない』と言う思惑と兄弟の思いが合致した部分が大きいだろう。
マイケルが5歳になる頃にはジャクソン・ブラザーズと名乗るようになり、その後はナイトクラブ、地域のの音楽祭、学園祭への出演等を果たします。
66年にはメンバーを5人に固定し『ジャクソン・5』と名乗るようになる。
ジャクソン5は68年に地元インディアナのインディーズ・レーベル、スティールタウンから『ビッグ・ボーイ』他数枚のシングル盤を発表。
これがマイケルのキャリア初の音源となる。
モータウンでのデビュー
ジャクソン5は68年7月モータウンと契約。
ダイアナ・ロスが発掘したと言う架空のシナリオと共に大々的に全米デビューを果たす。
この時11歳だったマイケルは愛くるしいルックスや声変わり前の幼いヴォイスの為に、初期設定として『8歳』と言うことにされた。
プロフェッショナルなステージングですぐに注目を集めデビュー以降4曲連続で全米1位を獲得。
黄金時代の始まり 人種、ジャンルの壁への挑戦
78年マイケルはダイアナ・ロス主演のミュージカル『ウイズ』への出演を機に、プロデユーサーのクインシー・ジョーンズと再会。
マイケルはソウル・ミユージックのトップ・スターと言う場所では収まらない存在となった。
大きな器を必要としたアーティスト、マイケル・ジャクソンは更に野心を持って、人種の壁、ジャンルの壁に挑戦。
80年のジャクソンズ名義のアルバム発表を挟み、マイケルは新たなソロ作に取り掛かる。
ポール・マッカートニーとの共作曲の採用。
スティーヴ・ルカサーを始めとする白人ロック・ミュージシャンの起用、そしてマイケル自ら黒人音楽の壁を越えると明言したエディ・ヴアン・ヘイレンのゲスト参加等。
それらをマイケルとクインシーのコンビは絶妙なバランスで形にした。
マイケルの強い方針として捨て曲が全くないアルバムとして製作された82年のスリラーは文字通りこの地球上で最も大きな成功を収めた作品となった。
それまではステージでしか観ることが出来なかったパフォーマンスの魅力。
それは歌と演奏とダンスといった要素でしかなかった。
加えてストーリ性や舞台構成、音楽以外のあらゆる効果を詰め込んだPVは、プロモーション・ツール以上の価値をもたらした。
私はマイケルが幼い頃から大ファンでした。これは素晴らしい!!!
有り難う御座います!
どういたしまして