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映画 92歳のパリジェンヌ生きる自由と死ぬ自由

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尊厳死をテーマに実話を基に作られた作品



2015年のフランスのドラマ映画。

リオネル・ジョスパン元フランス首相の母ミレイユの尊厳死を、娘で作家のノエル・シャトレが描いた小説『最期の教え』原案としています。

92歳を迎えた祝いの席で、マドレーヌ(マルト・ヴィラロンガ)は宣言する。

『気力がなくなって、生活に不便を感じ始めたら、この世を去りたい、あなた達の負担になる前に…2ヶ月後の10月17日に私は逝きます』

戸惑う家族の心情がとても印象深く、娘、息子、孫、家政婦、それぞれの立場と関係性が丁寧に描かれており、尊厳死の受け取り方もさまざまであります。

日に日にできないことが増えていく絶望感は、本人にしか分からない。

たとえ不自由なことが増えても解決策があるのではないかと、家族がいくら説得しようともマドレーヌは受け入れることはなかった。

逝く日に向けて少しずつ準備をするマドレーヌの姿

逝く日に向けて少しずつ準備をするマドレーヌの姿と、そばで見守る娘ディアーヌ(サンドリーヌ・ボネール)の心理描写が忘れられない。

母のためと心を決めてさまざまな後押しをするが、夢の中で母を射殺する瞬間まで見てしまう。

生きて欲しいと想う気持ちと、母の願いを叶えたいという想いの葛藤に胸が苦しくなった。

息子のピエール(アントワーヌ・デュレリ)がマドレーヌの行動に猛反対し、尊厳死を実行するために用意しておいた睡眠薬を鬼の形相で探し回るも、愛するが故のことである。

ピエールが『大事なのはどん底に落ちても愛する人と最期まで過ごすことだ!』

と叫ぶ気持ちにもとても共感できる。

マドレーヌのように自分が老いたら、デイァーヌのように尊厳死を後押しする立場になったら、ピエールのように尊厳死を受け入れられなかったら。

どの立場からも考える部分があるので、自問自答をしながらそれぞれの心情に気持ちを重ねて観ていた。

この作品で老いに対する描き方がとても生々しく、母の姿や、いずれ訪れる自分自身に重ねてしまい涙がとまらなかった。

マドレーヌの入院中のシーンでは、点滴に繋がれた高齢者たちが『そして今は』を歌う。

そして今は

そして今どう生きればいい?

これから先の長い人生を

もう誰にも関心を抱けない

今は空しいだけ

君は去ってしまった

誰のために 何のために 夜は訪れるのか

そして意味もなく また朝が来る

誰のために 何のために この心臓は鼓動するのか

こんなに強く

あまりにも強く

この歌が終末期を迎えた入院患者の心情のように感じてしまい、むせび泣いてしまった。

母が入院していた病院は、終末期を過ごす患者がほとんど。

空を見る目には力はなく、ひたすら点滴を受ける日々。

母の隣の患者さんは感染症のせいか、痩せ細った足の甲に碧紫色の大きなコブができていた。

意識のない患者の足を看護師さんが優しく手当をする姿に、胸が締め付けられた。

人はどこを境に、『生きている』から『生かされている』になるのだろうか。

口から食事をとれなくなり、点滴しかできなくなったら延命になるのだろうか。

意識のないなか点滴を続け、身体はやせ細り、そのうち点滴の刺せる場所もなくなる。

床ずれができ、身体は硬直し、些細な変化で感染症を引き起こす。

自分の意思を伝えられない患者の医療方針は、見守る家族が決めるしかない。

昔なら自宅で静かに最期を迎えていた。

家庭環境や医療の変化により、病院で最期を迎える人がほとんどだという。

生きる自由と死ぬ自由

そのような状態になる前に、生きる自由と同じように死ぬときを自由に決められるのなら、自分はどうするだろう。

マドレーヌの姿ををみながら、そんな思いで頭がいっぱいになっていた。

尊厳死をはじめ、活動家のさまざまな話を聞くうちに、自分の最期は自分で決めたいとマドレーヌは思ったのであろう。

マドレーヌの『花は死後よりも死ぬ前に欲しいわ』という言葉に『あぁ、そうだよなぁ』と、とても共感した。

尊厳死の決行当日、マドレーヌは色とりどりの綺麗な花に囲まれながら大好きなご馳走を娘と一緒に食べる。

娘から優しく包み込まれるように一緒にお風呂に入るシーンでは、娘の愛情深さを感じ、美しい情景のなかに切なさも感じた。

マドレーヌは思入れのある洋服を纏い、綺麗なお化粧をして最期の準備をする。

最期まで自分らしくありたいと願う、マドレーヌの静かで美しいシーン。

家族にお別れの電話をした後、睡眠薬を大量に混ぜて作ったものを口にし、マドレーヌはそのまま還らぬ人となった。

尊厳死

尊厳死に賛否両論あるのも事実ですが、尊厳死を実行できる環境に恵まれ、自分の意思を最期まで貫くことができたマドレーヌはとても幸せだったのではないかと思った。

日々痛ましいニュースなどを見ていると、病気、事故、事件などに巻き込まれず、92歳まで生きられること自体が奇跡のようだと感じている。

今後日本で尊厳死についての考え方や法律などが変わり、自由な最期を選べるとしたら、人々はどのような選択をするのだろう。

この作品を観てさまざまな考えを持つことができました。

日本での尊厳死は認められていないが、最期をどのように迎えたいかをリビング・ウィル(生前の意思)を用いて、家族や友人などに伝えることができる。

リビング・ウィルとは、『自分の命が不治かつ末期であれば、延命処置を施さないでほしい』と宣言し、記しておくものである。

延命処置を控え、苦痛を取り除く緩和に重点を置き、『平穏死』や『自然死』を望む人々の意思を伝えるのが目的です。

母のように認知症などによって自分の意思が伝えられなくなる前に、最期の迎え方について話し合うのは、人生においてとても重要なことだと思いました。

死とはどういうものなのか、母はその人生をもって、私にかけがえのない経験をさせてくれました。

母は最期の瞬間まで美しく立派であったため、死への恐怖よりも、どのように生きてどのような最期を迎えたいかが、今後の新しい人生観になった気がする。

自分の最期なんて誰にも分からないけれど、朝が訪れる日々に感謝しながら、限りある時間を大切に過ごしたいと思います。

今日も仏壇の前でそっと手を合わせる。

りんを鳴らすと、ある日の母とのやりとりを思い出す。

『お経を読むから、木魚を鳴らしてくれるかい?』

一定のペースで鳴らすのが案外難しく、私の生み出す不規則なリズムに母は肩を揺らしながら読経していた。

厳しくも優しい母の姿は、今でもすぐそばで温かな笑顔をみせてくれる。

最後まで読んでくださり有難う御座います。









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