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三島由紀夫氏の命を売りますを読んでいる最中、11.25自決の日 三島由紀夫と若者たちが目に飛び込んできた!

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本を読み始めた時映画を先に観たくなった


画像クリックで詳細をご覧いただけます

プレミアム会員は無料で視聴できました。

2012年6月2日公開の日本映画。

監督:若松孝二氏

主演:井浦新さん

森田必勝役:真嶋真之介さん

妻の平岡瑤子役:寺島しのぶさん

11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち

『三島由紀夫x若松孝二』の衝撃!

インディペンデント映画界の伝説となった巨匠・若松孝二氏が、41年ぶりにカンヌのレッドカーペットに降臨したことでも大きな話題を巻き起こした『11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち』。

これまで数多くの監督が果たせなかった、謎に満ちた三島由紀夫の最後の日々を映画化。

数々の名作と伝記を遺し、1970年11月25日に、防衛庁内で衝撃的な自決を遂げた一人の男、三島由紀夫。

頂点を極めた大作家の壮絶な最期に、世界中が驚愕した。

45歳という短い人生を自ら幕引きした彼は、その人生において、何を表現したかったのか。

ともに割腹自殺した青年・森田必勝(楯の会学生長)と三島のその心の奥底には何が潜んでいたのか。。。

1960年10月12日 浅沼稲次郎暗殺事件

こちらからご覧いただけます。

物語はこの事件の報道を観ている三島由紀夫氏の映像から始まります。

東京都千代田区の日比谷公会堂で、演説中、17歳の右翼少年、山口二矢に刺殺された事件。

この2日後少年は少年鑑別所で、『七生報国 天皇陛下万才』の文字を監房の壁に残し自殺。

詳細はこちらからご覧いただけます。

翌年の1961年、三島氏は『憂国』を発表します。

原題は旧漢字の『憂國』。

三島氏の代表作の一つで、二・二六事件の外伝的作品。

小説発表の4年後には、三島氏自身が監督・主演をなども務めた映画も制作され、ツール国際短編映画祭劇映画部門第2位を受賞。



憂國の詳細はこちらから

早大闘争

早大闘争(そうだいとうそう)とは、早稲田大学で全学的に展開される大学闘争を指します。

狭義には、早稲田大学で1965年末から学費値上げ、学生会館管理問題から始まった早稲田大学での学生運動、いわゆる第1次早大闘争。

広義には、1960年代後半の第2次早大闘争、1970年代前半の第3次早大闘争(早稲田解放戦争)。

(Wikipedia参照)

150日間の闘争となり、激しい当時の様子が映画内で放送されていました。

詳細はこちらから動画をご覧いただけます。

第一次羽田事件

佐藤内閣は、米軍による日本国内にある軍事基地や野戦病院などの使用を黙認することでベトナム戦争でのアメリカの軍事行動を間接的に後方支援していた。

一方、北爆による民間人被害の拡大やアメリカ国内での反戦運動の高まりを受け、1965年4月にベ平連が発足するなど、戦争協力に対する批判は急進的な学生だけでなく市井にも広まりを見せていた。

そのような最中、佐藤首相による第2次東南アジア訪問が決まった。

訪問先にはベトナム戦争の当事国であるベトナム共和国(南ベトナム)も含まれていたことから、学生を中心とする新左翼各派は日本によるベトナム戦争への支援及び加担の阻止を名分に「佐藤首相ベトナム訪問阻止闘争」のキャンペーンを展開した。(Wikipediaから引用詳細はこちらから

この映画も当時撮影したものが挿入されていました。

これを観ては思い悩む三島由紀夫氏。

金嬉老事件

金嬉老事件(きんきろうじけん、キムヒロじけん)は、1968年2月20日に在日韓国人二世の金嬉老(きんきろう(キム・ヒロ)、改名後の本名:権禧老(クォン・ヒロ)、1928年11月20日- 2010年3月26日、事件当時39歳)が犯した殺人を発端とする監禁籠城事件。

寸又峡事件とも呼ばれる。

籠城中に警察へ差別発言への謝罪を求め、記者会見を何度も開くなどし、事件は殺人事件から差別の告発に急変する。

親族は「当時、在日はみんな差別された。金嬉老は殺人を民族問題にすり替え、社会がそれを利用した」と語ったと言う。

(Wikipediaから引用詳細はこちらから

この時、三島氏は新聞記事を読みます。

『世の中はどうしても強く訴えたい時は人質と言う手法もある。たった一人でこれだけの事ができるんだからなぁ』と呟きます。

1968年三島氏は楯の会を発足

楯の会(楯の會、たてのかい)とは、間接侵略に備えるための民間防衛組織(民兵)として、三島由紀夫が結成した軍隊的な集団。

前身組織名は「祖国防衛隊」(Japan National Guard)で、日本の文化と伝統を『剣』で死守する有志市民の戦士共同体として組織された。

前身の『祖国防衛隊』は、基幹産業の企業構成員1万人規模の民間防衛組織を目指し、その幹部となる民間将校団「中核体」100名を養成していたが、防衛隊構想の軌道修正と共に、この『中核体』の隊員が『楯の会』の構成員として移行した。

会員資格は、1か月以上の自衛隊体験入隊で軍事訓練を脱落せず終了した者で、おもに民族派の学生を中心として構成され、10人以下1単位の『班』員として活動した。

(Wikipediaから引用詳細はこちらから

この年、川端康成氏は日本人初のノーベル文学賞を受賞する。

こちらからご覧いただけます。

川端康成氏は、1972年72歳でガス自殺をしている。

1968年10月21日国際反戦デー 別名新宿騒乱

1968年10月21日、中核派・ML派・第四インターは、明治公園及び日比谷野外音楽堂で集会を行った後、角材等で武装しながら続々と約2000人が新宿駅に集結し各所で機動隊と衝突した。

午後9時頃、デモ隊は新宿駅東口の広場で決起集会を開きその後再度駅構内に乱入した。

電車のシートを外して、それを薪代わりにして放火し南口を炎上させた。

また、停車中の電車や信号機など駅施設に投石を繰り返した。

騒ぎはデモ隊の何倍もの数となる野次馬が2万人も集まり拡大化し構内は破壊された。

新宿駅に接続する国鉄などの交通機能が麻痺状態に陥り、約150万人の通勤や通学などの利用客が影響を受けた。

日本政府は、翌日10月22日午前0時15分に騒擾罪の適用を決め743人を逮捕した。

電車は午前10時まで運転取りやめとなった。

翌1969年10月21日にも新左翼の学生数百人が駅構内に突入して破壊活動を行っている。(Wikipediaより引用)

1968年10月21日、中核派・ML派・第四インターは、明治公園及び日比谷野外音楽堂で集会を行った後、角材等で武装しながら続々と約2000人が新宿駅に集結し、各所で機動隊と衝突した。

午後9時頃、デモ隊は新宿駅東口の広場で決起集会を開き、その後再度駅構内に乱入した。

電車のシートを外して、それを薪代わりにして放火し、南口を炎上させた。

また、停車中の電車や信号機など駅施設に投石を繰り返した。

騒ぎはデモ隊の何倍もの数となる野次馬が2万人も集まり拡大化し構内は破壊された。

新宿駅に接続する国鉄などの交通機能が麻痺状態に陥り、約150万人の通勤や通学などの利用客が影響を受けた。

日本政府は、翌日10月22日午前0時15分に騒擾罪の適用を決め、743人を逮捕した。

電車は午前10時まで運転取りやめとなった。

翌1969年10月21日にも新左翼の学生数百人が駅構内に突入して破壊活動を行っている。

(Wikipediaから引用)


東大安田講堂事件 別名東大紛争

1960年代後半、ベトナム戦争が激化の一途をたどっていました。

また、1970年(昭和45年)で期限の切れる日米安全保障条約の自動延長を阻止・廃棄を目指す動きが左派陣営で起きます。

これに伴い学生によるベトナム反戦運動・第二次反安保闘争が活発化しました。

それと時を同じくして、高度経済成長の中、全国の国公立・私立大学においてはベビーブーム世代が大量に入学する一方で、ときに権威主義的で旧態依然とした大学運営がみられました。

これに対して学生側は授業料値上げ反対・学園民主化などを求め、各大学で結成された全共闘や、それに呼応した新左翼の学生が闘争を展開する大学紛争(大学闘争)が起こります。

全共闘の学生達は大学当局との『大衆団交』(団交)で自分たちの主張を唱え、それが認められない場合は大学構内バリケード封鎖という手段に訴えます。

学園紛争は全国に波及し、最盛期では東京都内だけで55の大学がバリケード封鎖に入り社会問題に発展していきます。

1969年4月28日 沖縄デー

『この4月28日『という日は、先の大戦による占領政策は『サンフランシスコ講和条約』が1952年4月28日に発効されました。

敗戦国日本が国際社会へ復帰するとともに沖縄の分離支配と全島基地化が半永久的なものとして、まさしく「沖縄を切捨て日本が独立した」歴史に刻み込まれた日でした。

琉球政府を置き公選の議員で構成される立法機関『立法院』を設けるなど一定の自治が認められていましたが、最終的な意思決定権は米国が握ったまま沖縄が米国の施政権下に置かれたのです。

この時、映画の作中で森田必勝は三島氏に『本当の強さとは何か』と尋ねます。

三島氏は作品の中でこう語っています。

巨大な警察が官僚たちが軍人に変わってしまった。

この国を守るのは自衛隊ではなくなった。

命にも美しさがある。

死にも美しさを求めている。

11.25自決の日 三島由紀夫と若者たちの映画作品から引用

1969年11月5日 大菩薩峠事件

大菩薩峠事件(だいぼさつとうげじけん)は、1969年11月5日に共産主義者同盟赤軍派(赤軍派)の53名が凶器準備集合罪で逮捕され、同組織の弱体化に結び付いた事件です。

1969年11月16日〜17日 佐藤首相訪米阻止闘争

佐藤首相訪米阻止闘争は、1969年11月16日~17日に行われた新左翼による闘争・事件。

近代日本史上最大の2500人超の逮捕者を出し、1967年から続いた学生運動・新左翼運動の高揚に一つの終止符を打ちます。

この年の11月17日は、内閣総理大臣佐藤栄作の訪米予定日でした。

佐藤首相の訪米の目的は、日米安全保障条約が期限切れ(以降は自動継続)となる1970年(昭和45年)を目前に控え、安保条約の継続をアメリカと協議することであった。

全共闘・新左翼諸派はこれを阻止する闘争を、70年安保の前哨戦(11月決戦)と位置づけ、前月の10.21国際反戦デー闘争に続いて各地で集会・行動を企画した。

中核派・解放派等を中心とした武闘派は、佐藤首相の訪米を実力阻止すべく、ゲバルト棒や火炎瓶で武装した行動隊を東京国際空港に送り込みます。

11月16日から始まった武闘派の実力闘争は、数百人ずつに分かれて蒲田駅に到着した部隊が、その都度機動隊に個別撃破されるという形になり、羽田闘争等の過去の闘争と比べても完全な敗北に終わりました。

佐藤首相の訪米は予定通り行われました。(Wikipediaから引用)


よど号ハイジャック事件

よど号ハイジャック事件(よどごうハイジャックじけん)は、1970年(昭和45年)3月31日に共産主義者同盟赤軍派が起こした日本航空便ハイジャック事件。

日本における最初のハイジャック事件です。

詳細はこちらから

この年の11月25日に三島由紀夫氏自決

映画というものは、脚色したり編集したりします。

しかし、映画の作中に出てくる上記のような事件はその当時の映像そのまま放送されていました。

そこで筆者がその全てを調べるため、何度も映画を鑑賞し検証しました。

その全てを書かなくては、三島氏の気持ちを理解出来ないのではと思ったからです。

何度観ても、それは分かりませでした。

三島氏本人でなくては、本当のことが分からないのではと筆者は最後に行き着きます。

責任感から自殺したのではと言う意見もあります。

それは、楯の会が大きくなり、その一部の学生が楯の会の運営費と題して、献金されたお金を横領したことも原因の一つでもあります。

楯の会は、三島氏個人の資金で賄われていました。

ただ、自決するまでの三島氏の気持ちは誰にも分からないと思いました。

最後に妻の平岡瑤子は、三島氏が訓練していた駐屯地を死後5年後に訪れ、『貴方らしい幕引きだったわね』

『な〜にも変わっていない』と言いながら歩きます。

ある日妻の瑤子は、小賀を誘い飲み屋に行く。

そこで瑤子は尋ねる。

『小賀さん一つだけ聞きたいことがあるの』

『夫の身体を残してあの部屋を出た時どんな気持ちだった?』

『何を残したの夫は。。。』

びくりとした小賀は、切腹の際介錯した自分の手を広げて終わる。

それから命売りますを一気に読みました


読む進めるうちにどうしても結末が知りたい。

朝の4時まで夢中になり読み終わりました。

三島氏は、東京大学法学部法律学科を卒業された法学士です。

13歳で初めての短編小説『酸模(すかんぽ)秋彦の幼き思ひ出』を書いていいます。

文字は旧漢字が多くて読めない字もありましたが、なかなかの傑作作品です。

大まかに言えば、生きる意味、死ぬ意味を深く追求した物語となっています。

現代の若い人たちにも通ずる、いやそうではない、現代の厳しい現実があるからこそ今若者に人気なんだと理解しました。

内容は今販売中の書籍のため書きません。

初めて読む三島由紀夫さんの本。

読み終えて、他の本も読みたくなりました。

まとめ

映画を見ても、本を読んでも何故自決しなければならなかったのか、モヤモヤとした気持ちだけが残りました。

ノーベル文学賞候補になるなど、日本語の枠を超え、海外においても広く認められた作家です。

『Esquire』誌の「世界の百人」に選ばれた初の日本人で、国際放送されたテレビ番組に初めて出演した日本人でもあります。

出来るものなら、文豪としての力を発揮して欲しかったと思うのです。

法律を学んだものであれば、他の方法があったかもしれない。

三島由紀夫氏の本を読んだ方は、同じように思うのではないだろうか?

とても残念でなりません。

最後まで読んでくださり有難うございます。

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