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オードリーヘップバーンとジバンシー&ファッション

ヘップバーンは1961年にインターナショナル・ベスト・ドレッサーに選ばれ殿度入りしています。

今なおファッション界からは敬意と賞賛の声が多い。

当時のハリウッドでもてはやされていた、マリリン・モンンローやジェーン・マンスフィールドといった豊満な女優たちとは異なり、ヘップバーンは大きな瞳を持つ細身で優雅な女優でした。

映画監督ビリー・ワイルダーは『この女性が大きな胸を過去の遺物としてしまうだろう』と語っている。

ヘップバーンのイメージを作りあげたのは、ファッションデザイナーのユーベル・ド・ジバンシィがデザインした洋服でした。

ジバンシーが最初にデザインしたのは、『麗しのサブリナ』からです。

監督のビリー・ワイルダーは、パリで美しく変貌を遂げたサブリナの衣装は、パリのマネキンが着るような最新モードであるべきだと考え、ジバンシィのサロンで自分で直接買い付けるようヘプバーンをフランスに送り出しました。

パラマウントの関係者から、『ヘプバーン』という女優が今パリに来ており、次の映画で使う衣装を探していると言われたジバンシィは、その名前から、憧れの大女優キャサリン・ヘプバーンだと思い込み、大喜びでアポイントメントを受ける。


キャサリン・ヘプバーン

オードリーヘップバーンと初めて顔を合わせたジバンシィは失望し、秋冬コレクション前で空いている時間がほとんどないため衣装を新たに作る時間はないとヘップバーンに答えています。

ジバンシィは『既にある服を試して衣装としてふさわしいのなら何とかなるかもしれません』と答えたという。

ヘプバーンはそれを受け入れ、1953年春夏コレクションの中から最終的に3つのドレスとそれに合わせた帽子を選び出し、パリ・コレクションの一流モデルに合わせて作られたドレス(ウエスト50.8)を着こなしてみせた。

その後もヘプバーンは彼がデザインした多くの洋服を着こなし、そのファッションスタイルはジバンシィの名と共に世界的に評価されることになっていった。

後年、ジバンシィはヘプバーンから『あなたの作ってくれたブラウスやスーツを着ていると、服が私を守ってくれている気がするわ』と言われて感激したと話している。



ジバンシィの洋服はこの時を境に日本でも有名になり、ヘプバーンファンでなくても、日本中に同じようなスタイルをする若い女性で溢れていた事を思い出します。

日本洋服メーカーはジバンシィの洋服に似た洋服を大量販売。

その頃のヘプバーンは、日本の女性にとってファッションメーカーで、似たような洋服が流行りました。

私もその一人でした。

まあ、ウエストは58cmとヘプバーンには届きませんでしたが。笑

若き日の良い思い出です。

冗談でも『ヘプバーンに似ている』と言われると、とても嬉しかった事思い出します。爆笑



1957年代の日本のファッション

オードリー&ジバンシィのファッションを取り入れているように思います。

幼き頃からファッションの才能を発揮した天才 ジバンシィ

1927年、フランスのプロテスタント貴族の家庭に生まれ、父は公爵の称号を持ち、母方祖父はゴブラン&ボーヴェ・テキスタイル・ワークショップの所長を務めた芸術家。

ジバンシィが2歳の時父親が病気で亡くなり、母親とその祖父母によって育てられました。

ジバンシィの感性に大きな影響を与えた人物としては、この祖父の存在が大きいとも言われていますが、母親もファッション好き。

いとこや叔父、叔母も音楽や絵画の才能を発揮した芸術一族だったので、血統からしてすでに芸術家となるべくして生まれたという事だったのかもしれない。

幼い頃からすでにファッションに対する才能を発揮していたのは有名で、母親のファッション誌に登場するモデルを参考にして、人形のための服を作ったのが8歳の頃でした。

10歳でパリ万博に訪れた時には、ジャンヌ・ランバンのプロデュースしたパピリオン・エレガンスに魅了され、ここに登場したシャネルやスキャパレリ、ヴィオネやランパンたちと肩を並べるようなデザイナーになりたいと決意。

ただ、この時代ファッションデザイナーというのは、まだまだそれほど良い職業とは思われていなく、貴族の身分に生まれたジバンシィは家族から反対されましたが、最終的には説得し、デザイナーへの道を歩み出したのです。

大物デザイナーを渡り歩いた下積み時代


ファッションの道を志し、ジバンシィがまず最初に赴いたのが、スペインの巨匠クリストパル・バレンシアガ。

バレンシアガは、幼い頃からの憧れの存在で、オートクチュール界の中でも屈指の存在となっていました。

大胆な少年だったジバンシィは、まず自分のスケッチをバレンシアガに見てもらい、アシストタントとしてバレンシアガのメゾンで働こうと考えました。

しかし、脆くも崩れ去りました。

バレンシアガのディレクターであるルネーにあっさりと門前払されてしまったのです。

これにへこたれず次に挑んだのは当時のパリで人気の高かったジャック・ファスのメゾン。

これに成功し、スケッチを持ち込んでその場で契約を勝ち取ります。

こうしてジバンシィのファッション業界の第一歩が始まりました。

ジバンシィはファスの元を去り、さらに腕を磨くためにロベール・ピゲ、そしてリュシアン・ルロンのサロンを経て、イタリアのデザイナーのエルザ・スキャパレリの元で4年間働きました。

スキャパレリもパリ万博の際に憧れを抱いていたデザイナーの一人でこうした大物たちの元で多くの事を学んでいったのです。

この後、自身のブランドを立ち上げるジバンシィにとって何よりも大きかったのは、こうした下積み時代に築き上げた人脈です。

スキャパレリの引退後には、その上顧客がジバンシィを頼ったというほど、この時代に築いたものはその後のジバンシィの躍進に大きな意味を持ちました。

立ち上げからいきなりの大成功。。。


ジバンシィのメゾンが立ち上げられたのは1952年、この時はまだジバンシィは24歳。

拠点は、モンソー公園近くのアルフレッド・ド・ヴェニー通りのゴシック様式の建物でした。

そして、ディレクターとしてマダム・エレーヌ・ブイヨー=ラフォンを起用し、ファーストコレクションに向けてパリのトップクラスのモデルとも契約を交わしました。

ジバンシィはスキャバレリの元で働いていた時代からすでにその才能をいかんなく発揮していました。

そして、迎えたファーストコレクションでは、より便利に、楽に、そして個性的なファッションを追求した上でたどり着いた『セパレート』にて大成功を収めました。

他にもモデルの名前にちなんで付けられたブラウス『ベッティナー』。

ベッティナーはモデルだけではなく、アシスタントとしても働き、広報の仕事もこなしたジバンシィの右腕です。

まだ高価な素材を使うことができなかったため、コットンのシャツ地が使われていたのですが、そのデザインはとてもフェミニンで美しい装飾も施されていました。

この時サロンの常連には、後にジョン・F・ケネディ大統領夫人となり、世界のファッションアイコンとなるジャクリーン・ブーヴィエもいました。

こうしてジバンシィは若くして成功を収めたのですが、あまりにもメディアが注目しすぎ、一躍スターダムに押し上げられてしまったがために熟練の職人が不足し、生産が全く追いつかないという事態に陥りました。

ハイファッションをより安く手に入れられるという高級既製服という概念から、伝統的なオートクチュールメゾンに立ち返ることを余儀なくされました。



ジバンシイ

この続きは明日書こうかと思います。

2ページに書いておきたいと思います。

最後まで読んでくださりありがとうございます。


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